日本文化の伝統に在る余白について

動画版

こんにちは、アートディレクターの佐藤です。

今日は、私のデザイン観において影響を受けている日本伝統文化の余白を重んじる価値観について、いくつかの例を紹介したいと思います。

絵画芸術の余白

土佐光起の言葉

江戸時代、土佐派の絵師である土佐光起は『本朝画法大伝』という絵画について書かれた書物の中で、次のように語っています。

白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし

写実を求め細部まで描き込むことで余白(negative space)を残さない、西洋美術の印象派頃までの描き方と異なり、日本美術には"心にてふさぐ"ための余白が、様々なところに登場してきました。

長谷川等伯「松林図屏風」

安土桃山時代に描かれた、長谷川等伯による国宝の水墨画「松林図屏風」は、木々の間に多くの余白を残しています。余白は、大気であり、霧であり、それに覆い隠された無数の松であり、土であり、と、限定しないイメージの拡がりを与えています。

等伯

長谷川等伯「松林図屏風」

この余白が見る者の想像を喚起させるからこそ、この作品はまるで霧の中に吸い込まれるように、無意識のうちにその世界にぐっと引き込む力を持っているのではないでしょうか。

尾形光琳「紅白梅図屏風」

江戸時代の琳派の作品にも、余白を積極的に取り入れた作品が多くあります。 そのひとつが、尾形光琳による国宝、紅白梅図屏風。

尾形光琳「紅白梅図屏風」

背景を一切描き込まず、金地の余白とすることで、そこに無限の奥行きや広がりを感じさせています。

空間芸術の余白

枯山水

水の無い庭、枯山水。禅寺で発展した枯山水は、水を引き算することで水を感じさせるという、想像のための余白が存在し、白砂や小石から水面を連想する"見立て"による世界観を形作っています。

世界遺産である龍安寺の石庭は、こうした枯山水の庭園です。

龍安寺の石庭(京都)

総合芸術の余白

茶の湯

安土桃山時代に千利休が完成させた、侘び寂びを追求した茶の湯でも、余白は多く出現します。

利休の茶の湯は、無駄なものを削ぎ落とし、茶室は2〜3畳の極端に狭い面積、道具はあえて簡素なものを用いました。

茶花は"省略の極致"といい、季節感のある一輪の花を「野の花のように」そっと差すことで客人のイマジネーションを喚起するためのもの。ある日、庭に美しい朝顔が咲いたからと豊臣秀吉を招いた利休が、庭の朝顔の花をすべて摘み取り、一輪だけを茶室に生けたという逸話は有名です。

茶の湯を海外に紹介した岡倉天心は、こうした美意識について、

故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる

と語っています。

舞台芸術、文学の余白

能楽などの舞台芸術や、俳句などの文学にも、余白の美意識は息づいています。

能の舞台での、謡(うたい)と謡の間にある沈黙の時間。それは時間的な余白として、重要な意味を持っています。

俳句は、その削ぎ落とされた短い言葉から、行間に秘められたイメージの拡がりを追求します。


もともと、"語りすぎないこと"は、ものづくりをしてきた中で自然に考えていたことですが、それとリンクした日本の伝統文化にある価値観を知るにつれ、余白を、より意識的に扱うようになりました。

次回は、余白を残したデザインを実際に行う際、意識していることを紹介します。


参考文献:
岡倉天心 『茶の本』(講談社)
原研哉 『白』(中央公論新社)
松岡正剛 『山水思想』(五月書房)
向井周太郎 『かたちの詩学』 (美術出版社)

記事カテゴリー